「映画館を出たとき、世界がこれまでと変わって見える」ことが名作映画の条件だと聞いたことがある。
映画『ジョーカー』を観て1ヶ月がたち頭の中で反芻してきたが、たしかに世界の見え方がすこし変わったかもしれない。
※以下、全編にわたりネタバレなので、未見の方はご注意ください。
「無敵の人」の思考回路が理解できた(ような気になる)
「無敵の人」というネットスラングがある。
自分には失うものが一切ないと思っている人のことで、 逮捕や刑罰、そして近しい人の存在は抑止力にならない。
犯罪・テロ行為をすることが本人的にはノーリスク・ノーダメージなのである。
この意味でジョーカーは無敵の人だ。
それと対極にあるかもしれないのが、日本でまあまあ普通の暮らしをして1900円の映画を観に行けるような人。つまり 『ジョーカー』に足を運んだ多くの観客たち。
そんな我々には無敵の人の気持ちなど本来分かるはずがない……のだが、観ているうちにどんどんジョーカーに感情移入してしまう。
これが本作の恐ろしさであり、独特の魅力だろう。
なぜ感情移入できるかというと、主人公アーサー(ジョーカーの本名)は、理解不能な悪人ではないからだ。
不器用で貧しいが、母の介護をし、人を笑顔にさせたいと願う健気な男なのである。
そんなアーサーが持病や世相、特殊な生育環境といった自分にはどうしようもない要因に追いつめられることで、物語が動いてゆく。
そして観客はいつの間にかその姿に伴走させられ、最終的には極限状態に達したアーサーを主観視点で捉えてしまうこととなるのだ。
これでもかというほど追い詰められて……からの大爆発ッ!!という展開に多くの人がスカッとしたカタルシスすら覚えてしまうのではないだろうか( そういう意味で『必殺仕掛人』 シリーズも連想しました)。
特にCreamの『White Room』をBGMにジョーカーたちが町を破壊するシーンはやたらとカッコよく見えた。
もし「上級国民」であっても、いつカウンターを喰らうかわからない
いやいや、そうはいってもこのアーサーって自業自得の面もあるし、ここまで堕ちるような奴に感情移入なんてできないよ、という人もいるだろう。
たしかにそれも分かる。
しかし理解できなかったり、さらにはもし自分が「上級国民」だったとしても、本作で描かれていることは他人事じゃない。
無敵の人からカウンターパンチを喰らわされるかもしれませんよ?とこの映画は示唆しているのだ。
陰鬱なゴッサムシティ(≒80年代の治安最悪なニューヨーク)と今の日本でパっと見の景色は違う。
しかし、勝ち負けの可視化・二極化が進む日本でルサンチマンを抱く人は増えている。
個人をかんたんに特定できるSNSアカウントから社会に対する過激な物言いが大量に発信されて、共鳴や増幅を生んでいる。
そんな不穏な状況を、誰もが肌で感じてるところではないだろうか。
小粒なジョーカーがポコポコ生まれてきそうな空気を、この映画を観るとより一層感じることになると思う。
正視できないほどこちらが苦しくなる「笑い」
ホアキン・フェニックスの演技があまりに凄まじいということなのだが、 見ていて非常に苦しくなる「笑い」が2パターンあった。
幼児期に虐待を受けた脳の損傷が原因らしく、アーサーは緊張すればするほど爆笑が止められなくなる病気を抱えている。
バスで乗客から注意を受けた時、女性が酔っ払いに絡まれるのを見た時、コメディアンとしての命運を賭けたステージでの第一声……とんでもなく場違いであればあるほど容赦なく発作が起き、何1つ面白くないのに笑いを止められなくなってしまう。これは本人にとって地獄。
もう一つは、他のコメディアンのステージを観客席で見ている時。
特殊な半生のためか価値観がズレまくっているので、ジョークのどこが面白いのかさっぱりわかっていない。
それでも場に馴染もうとわざとらしく爆笑するのだが、明らかに他の観客とタイミングが違う。
この人は決定的に社会と隔絶されて生きてきたのだということが感じられ、 とても哀しく正視できない居心地の悪さを感じた。
こういう「笑い」を自分は見たことがなかったな、と思う。
これからの人生で、人が爆笑しているのを見るたびに
「本当にこの人は心の底から笑っているだろうか。あるいはもしかして……」
と一瞬疑ってしまいそうだ。